宗教に染められたくない人々 [どうしても知って欲しい大切なこと]
坐禅(座禅)と聞いただけで、「ほら、宗教の話!」と身構える人々がたくさんいらっしゃるようです。
私たち日本人は「まっさら」が好きなんだなあとしみじみ思います。
お仏壇があって、お墓があって、お参りに行くでしょう? もうそれだけで充分あなたは仏教徒です。あなたが何を思おうと、自分は無宗教だと感じていようが、外国人の目から見れば立派な仏教徒のはずなのです。
でも、自分が仏教徒とは思われたくない。宗教なんて胡散臭いものとは無縁の存在でありたい。
日本人は昔から色をつけられるのを好みません。
当時の危険思想と思われていた共産思想のことを「赤」と呼び、あいつは「赤」だ!の一言で村八分にされ、のけ者にされる。
「赤」の人間をすべて排除することにより、残りの村はまっさらのままで居続ける事が出来る。
こういう成り行きのことを「レッドパージ」と呼ばれたそうです。(パージとは追放という意味です。)
つまり私たちの心には、まっさらが最上で、色が付いてるのは悪であるという意識がどこかに潜んでいるのではないでしょうか?
私は長野の善光寺の裏手にある「大本山活禅寺」で坐禅(座禅)を習いました。
禅僧が坐っている大きな看板が出ていて、禅寺とすぐにわかります。
禅宗というと大雑把ですが、特に曹洞宗の寺を菩提寺に持つ家が、私の周りには結構たくさんあります。
曹洞宗といえば、皆さんが厳しい修行の場として真っ先に思い浮かべる福井の永平寺が有名ですね。
残念ながら曹洞宗と名乗りながら、坐禅(座禅)の出来る道場を持っているお寺はもしかしたらそんなに多くはないのかもしれません。
それだけ坐禅(座禅)は私たちから遠い存在になってしまっているのでしょうか。
そういうまっとうな禅寺に対してさえも、嫌悪感を抱く人がいるのは本当に悲しいことです。
新興宗教と言われる宗教団体の名前を持ち出す時よりはあからさまな嫌悪感を顔に出す人は少ないけれど、それでも「宗教だから嫌」なのです。
「あの人は宗教をしている」と思われること自体が嫌なのです。
なぜなら宗教自体にも色が付いているから。具体的に何色かはよくわからないけれど、まっさらではなくなってしまうという事実がそう感じさせるのでしょうか?
嫌!は感情ですから、理論を尽くしても説得出来ません。「だめったら、だめ!」が一番やっかいなのです。
そういう人々のために、敢えて申し上げたいと思います。
不安や悩みを抱えて生きる人々には、是非是非禅寺へ行って坐禅(座禅)をしてみて欲しい。
でもそれは、限られた期間だけでいい。
あなたが正しい坐禅(座禅)の仕方を身につけるまで。つまり正しい姿勢と正しい呼吸を自分のものにしていつでもどこででもお寺で習ったやり方を再現できるという自信がついた時まで。
まあ、数ヶ月というところでしょうか。
そうしたらもうあなたはお寺に行く必要はありません。
それなら安心でしょう?(^-^)
たぶんその間、 円座と呼ばれる座布団代の数千円くらい 以外のお金を払う必要はないと思います。
私もそうして1年間、タダで活禅寺に通いました。
禅寺のモットーは「来るものは拒まず。去るものは追わず。」なので、去って行った人々に対してとてもあっさりしているはずです。
正しい坐禅(座禅)のやり方を身につけて、もうこれでこの寺から得ることは何もないと思ったら去ればいい。
何かまだ物足りないからもう少し知りたいと思えば、お寺にとどまる(入門)ことを考えたらいいと思います。
もちろん一度去ったからといって、あなたがお寺に帰ってくることを誰も拒みません。
坐り方がまたわからなくなったら、いつでもお寺に戻って来てください。(^-^)
九子さん!今日は。
<来る者は拒まず、去る者は追わず>が禅寺のモットーだとは知りませんでした。お勉強させて頂きました。
by chibacandy (2017-08-14 15:42)
chibacandyさん、お返事遅れてごめんなさい。
書いておきながら、コメントしてくださる方が現れるという期待していなかったものですから・・。(^^;;
禅寺は布教という観点から言ったら、「大丈夫?」くらいあっさりしていると思います。そこがいいんだけど・・。(^-^)
すごく自由ですよ。おいおいまた書こうと思いますが・・。
by 九子 (2017-08-17 23:42)