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中国人は・・・ [それって劣等感だよね!]

前の記事で「ネットの言うことなんか信じないで、自分の嗅覚で嗅ぎ取った情報を信用して下さい。」なんて調子のいいこと書いたのに、私にはまったくそれが出来ていなかったというお話です。


M氏の恩師の先生は沖縄に住んでいらして、M氏が人なつっこく寄っていくものだから、卒業後40年も経った今でもお付き合いがあります。


ある時先生の奥様が電話を下さって、ついついいろいろな話になった結果、先生の息子さんの奥様が中国の方だと伺いました。

「えっ?中国人?怖い人ではないですか?」と私は思わず聞いてしまったのです。


先生の奥さまは絶句なさいました。「どうしてそんなことおっしゃるんですか?」

言われてみればその通りです。返す言葉がありません。

私はしどろもどろで「中国の人はみんなキツイし、強い人が多そうだから・・。」と答えました。


息子さんのお嫁さんはとっても優しい人で、奥さまと別れる時に泣き出しちゃうような可愛い人なのだそうです。


私の中の中国に対する意識。それが生み出した中国と言う国に対する偏見。それは更に、それを助長するようなネットの情報ばかりに注目し、さらなる偏見を生み出していたのかもしれません。


ネットやテレビの知識以外に、実際に自分が経験したささやかな対中国体験と言えばネットでの購入でした。
それは確かにあまり気持ちのいいものではありませんでした。
一言で言えば見てくれ=商品の写真と中身がまったく違うのです。
日焼け止め帽子を購入したのですが、こうなると紫外線遮断率100%というのも怪しくなってきます。


そういうことが一度でもあると信用が無くなります。次にはこの店では絶対に買いたくないと思います。そしてお客さんが離れていきます。


私たち日本人はそうなることが一番怖いから、常に「良いもの」を同じ品質で売り続けようと思います。努力し続けます。

ところがかの国ではお金が全てです。儲かればいい。騙される方が悪い。


だけれども、それは私の人生でたった数回のことです。全部の中国製品を買ったわけではありません。
ましてや、中国人と話をしたことなどありません。(台湾の人ならありますが)


私の中の偏見が、「中国人はいい人だったよ。」という話を疑り深く聞き、「中国人はひどいやつらだ。」という話をそれみたことか!と思っているだけに過ぎません。


華々しい成長をもはや望めない日本が、勢いを持って上り詰めようとしている中国に抱いているジェラシーなのかもしれません。


中国には13億人もの人々が居ます。それを十羽一絡げにして「中国人は・・だ!」と言うことは決してしてはいけないことなのだと思い知らされました。

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日本人捕虜が作ったナヴォイ劇場 [落ちこぼれ仏教徒にもなんとなくわかる「仏教の教え]

  

このあいだテレビでやってましたね。ウズベキスタンで日本人捕虜が作ったナヴォイ劇場の話。


終戦で満州を引き上げ、いよいよ日本に帰れると勇んで列車に乗った四百数十人の人々が連れてこられたのは旧ソ連領のウズベキスタンでした。そこでは2年間で劇場を作ると言う過酷な任務が待っていました。


彼らは皆技術者ではありましたが、建設は素人です。
それでもリーダーの「生きて日本に帰り、また桜を見よう。」の一言で、劣悪な環境の中、まじめに律儀に働きました。


最初は彼らにひどい仕打ちをしていた地元の人々も次第に彼らの真面目な仕事ぶりに感心して心を開くようになり、捕虜たちの中心になっていたリーダーが事故で亡くなってしまった時には、率先して花を手向けてくれるまでになりました。


予定通り2年間でナヴォ劇場は立派に出来上がりました。その立派さは、旧ソ連時代の4大劇場と称えられるほどでした。

ナヴォイ劇場は1966年のタシケント地震を耐え抜き、多くの人々の避難場所となりました。


ナヴォイ劇場建設時に不幸にも亡くなった捕虜たちの墓には、桜が植えられています。
彼らが夢にまで見た日本の桜。せめてこの地で桜を見せてあげようとの人々の温情です。


いいお話でしたね。(^-^)
でもこういう話、この頃多過ぎませんか?
日本人は昔話をしないと自分たちを誇れないほど今はダメになっているのかと却って残念に思いますけど・・。


とにかくこの国は旧ソ連の国でした。国民は政府の情報を鵜呑みにします。(これはどこの国でも同じこと。)
だから捕虜たちは最初はいじめられました。


でも次第に、住民の気持ちは変わっていきます。
それは住民たちが毎日日本の捕虜たちの働きぶりを見ていたから。


充分な食べ物も無い過酷な環境で、来る日も来る日も文句を言わず、手も抜かず、しっかりと頑丈な建物を作り続ける。


彼らもそうですが、私たちも自分の目で見たこと、自分の耳で聞いたこと、自分が経験したことをまず信用すると思いませんか?

「こういう風に聞いていたけれど、実際に会ったらこういう人だった。」という経験は、その人に対するあなたの評価を変えます。


自分の目を信じてください。自分の耳を信じてください。そして自分の五感で体験したことを真っ先に信用して下さい!


この自由で民主的と言われる日本の中でも、政治の中には嘘がまかり通っています。
政府の言うことや、誰かが言うことではなく、自分の嗅覚で嗅ぎ取った情報を信用して下さい。


ましてやネットの情報などいわずもがなです。

大きな声になってる情報があったら、その裏側を読み取る努力をしてください。


「みんなが言ってること」は、決して「正しいこと」ではありません。
「正しいこと」である可能性もありますが、そうでない可能性も大きいことに注意して下さい。


大本山活禅寺で師匠に真っ先に習ったことは「信は万宝の母」という言葉でした。
仏教の基本はまず信じることであるということです。
信じなければ、何も始まらないぞ!とも言われました。


確かにそうでしょう。神も仏も、信じるところから始まるものであって、それを信じなければ神も仏も居ないのと同じことなのです。


確かに「信じること」は一番大切ですが、「何を信じるか?」もまたものすごく重要です。


「正しいこと」を信じよう。でもその「正しいこと」が何かわからない。


とりあえず「私を信じよう!」だと思うんです。
なぜならば、私は信ずるに足る存在だから。

なぜそう言い切れるのか?

それを確かめるのが坐禅(座禅)なんだと思います。(^-^)





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ただそれだけを見つめること [どうしても知って欲しい大切なこと]

前回も書きましたが、競馬馬みたいにいつも自分の進む道意外が見えないように目隠しされてたらいいのだけれど、周りってついつい見えてしまいますよね。自分でも「あっ、今誰かと比べてるから悔しいのだな!」と思うことよくありますもん。


坐禅(座禅)をする時もよく「只管打坐」と言われますが、これは「坐禅(座禅)の呼吸と一体になれ。」ということだそうです。坐禅(座禅)の呼吸それだけに意識を集中して、それ以外を見ない、考えないということだと思います。


「それ以外を見ない」方は、普通のときよりも楽なはず。だって坐禅(座禅)では「半眼」と言われる、

目を開くのでもなく閉じるのでもない状態を続けていなければならないからです。


残念ながらこの「半眼」を続けることさえも、私にとってはとても難しい。
考え事をする癖のある私は、ついつい余計なことを考えてしまって、「あっ、いけない!」と気づいた時には、もう必ず、絶対、100%目をつむっています。

本当にそれはもう確かなことです。余計なことを考えている時は、必ず目を閉じている時なのです。
「目を閉じないこと」これはとても大切なことです。


「数息観」という呼吸の仕方があります。文字通り息を数えるのです。
「ひと~つ」と言う間に大きなゆったりした一呼吸をする。「ふた~つ」と言う間にまた大きく呼吸をす

る。それを「と~お」まで繰り返す。そしてまた「ひと~つ」に戻る。


私は集中力が無いので、「みっつ」くらいで妄想の世界に入ってしまうため、気づいた時にはいくつ数えたのか忘れていて、また「ひとつ」からの繰り返し。
これではいかん! わかっているのですけれどもね、なかなか治りません。
だって物心付いた頃からの癖ですから、そうやすやすと治る訳が無いのです


「半眼」にしろ、「数息観」にしろ、出来た方がいいに決まってます。
それが簡単に出来る人は、人より優れた素質を持つ人でしょうから、リーダーになるための厳しい修行の坐禅(座禅)をされたらいいと思います。


でも私は言っておきたい!
30年経っても、「半眼」も「数息観」もしっかり出来ないこんな怠け者の私でも、坐禅(座禅)で幸せ

になることが出来ました。


要所要所で正しい呼吸が出来さえすれば、そんないい加減な坐禅(座禅)でも、幸せになることは出来るのです。(^-^)

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右足と左足 [気楽に読んでね(^-^)]

私の右足と左足。こんなに気になった年はありませんでした。


年をとるのは嫌なものですね。あちこち本当に思いがけないことが起こります。

おっちょこちょいの私は、足を踏み抜いて30センチほどの高さのテラスから地面に落ちてしまったのです。それが4月の半ば。


かなり広い部分に内出血したのですが、いつもどおり色がすぐに消える(紫や黄色になりにくい)漢方薬を飲んでやり過ごしました。

今回はきれいになるのにいつもの何倍の1ヶ月はかかったと思います。


きれいになったと思ったら、その同じところが、こんどは赤くなって広がってくるのに気づきました。
赤くなるだけならまだしも、腫れて浮腫んで来るのです。
しまいには左脚(膝から下)と左足、つまり踝(くるぶしから下)だけが、明らかに右脚右足よりも太く厚ぼったくなってしまいました。

そしてそのうち、赤みはだんだん腐ったような紫色へと変わって行くではありませんか!


これでは長女の結婚式で草履も履けません。


さすがにあわてて皮膚科、循環器科を受信し、「深部静脈血栓症のうたがい」という診断がつきました。

これ自体は結構大変な病気なのですが、そこまで深刻に考えないようにとも言われました。

血栓を溶かす薬も処方されませんでした。


治療には弾力ストッキングを終日はいていることくらいしかなく、一体いつになったら治るのでしょう?
膠原病の疑いまであると脅かされて、まあそれもあと数ヵ月後の検査待ちです。


 
私は長い間自分の足が大嫌いでした。
母はペディキュアの似合う22.5センチのかわいらしい華奢な足をしていたので、幅広で甲高で大足の私は、いつも母がうらやましかったのです。


ところが今回、別物みたいになってしまった右足と左足を比べて、生まれて初めて、健康な私の右足はなんと美しいのだろうと思うことが出来たのです。


病気になって初めて健康の有り難味を知るとよく言いますが、それもさることながら、人間はついつい比較してしまうものなのだなあと思いました。


自分の足を母の足と比較して劣等感を持っていた若き日の私。
いつもはわからなかったのに、不健康になってしまった左足と比べて、健康な右足はなんてきれいなんだろうと思えた私。


幸いなことに発症から2ヶ月ほどすると、症状は自然に改善していきました。
まず浮腫みが取れて、心配していた草履はふだん履いているのがきちんと履けました。


左右の足を比べても、太さや厚ぼったさの違いはありません。

ただ、比べてみれば、まだまだ左足の色はより褐色です。
左右比べないで左足だけを見ていれば、そんなものかと思うだけなのに。


すべての不幸の原因は比べることから来るのだなあ。
比べないでそれだけをじっと見ていれば、少なくとも優越感も劣等感も感じないですんでいたのに・・。

 

"「九子のダメ母の証(あかし)日記」が更新されています。(^-^)

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二つの坐禅(座禅) [どうしても知って欲しい大切なこと]

二つの坐禅(座禅)と言うと、知識のある人は曹洞宗の「只管打坐(しかんたざ)」臨済宗の「公案禅」の違いを思い浮かべるかもしれません。


「只管打坐(しかんたざ)」は、考えてはいけません。ただただ坐禅(座禅)に集中し、坐禅(座禅)になりきる。そのために、呼吸を数える。呼吸に集中することが重要になります。


「公案禅」の方は、「公案」というものをひたすら追求する・・のだと思います。
大本山活禅寺の坐禅(座禅)は曹洞宗の流れを汲むものですから、「公案禅」はよくわかりません。


確かにその二つの大きな違いがあることは確かなのですが、私がここで「二つ」と言っているのはその違いではありません。


「修行の坐禅(座禅)」と、「楽ちんで誰にも出来る坐禅(座禅)」の違いとでも申し上げましょうか?


私個人としては、「修行の坐禅(座禅)」は社会的に地位があり、より上を望む責任を負うリーダーのための坐禅(座禅)だと思っています。


そして「楽ちんで誰にも出来る坐禅(座禅)」こそ、昔の私のようにおどおどびくびく生きてきて、他人が怖く、世の中が怖く、不安で不安で、とてもじゃないけれど幸せになんか生きられないっていう人にぴったりの坐禅(座禅)だと思うのです。


この二つの坐禅(座禅)ですが、坐り方そのものはまったく同じです


要するに私みたいな人間は、集中力も根気も忍耐力も乏しいので、集中し続けることが難しい。

その結果、どうしてもぼーっと別のことを考えてしまうので、坐禅(座禅)の呼吸にたどりついたとしても、その呼吸を長時間、たとえば一時間、二時間と続けることが難しい。


正しい呼吸にたどりつけさえすれば、その時点で自然に楽しく幸せな気持ちになって、不安もあせりも心配もどこかに消え去ってしまって、自分は世界一幸せな人間と思えるようになる!

これは保証します!


実は私は、そこで満足してしまったのです。


もしもこの坐禅(座禅)の呼吸を長時間続けることが出来るようになれば、和尚さんのように、社会のリーダーたちのように、きっと自分の欠点を克服して、自分自身を変えられるような凄い坐禅(座禅)が出来るのだと思います。


でも私は今の自分で満足なのです!
坐禅(座禅)のおかげで自分が大好きになれたのです!


だから、別に、辛い修行をして自分を変えようなんて思いません!


これを読んで下さっていらっしゃる方の中で、自分が大嫌いな人いらっしゃいますか?
そういう人には坐禅(座禅)が是非お勧めです!

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「和尚」について [気楽に読んでね(^-^)]

私が通う大本山活禅寺には和尚たちがたくさんいます。


皆さんは「和尚」と聞くと、お葬式の時に来てお経を読んでくれる頭を剃った衣を着た人を思い浮かべ、「和尚」は、職業だと思っていらっしゃるのではないでしょうか?


そう。ほとんどの場合、「和尚」はお寺に住み、檀家を持つ僧侶という職業の人のことです。


ところが活禅寺の「和尚」は違うのです。もともと活禅寺は、僧侶ではない普通の人が坐禅(座禅)の修行に来るお寺です。修行が進んで最終的に上り詰めた地位が「和尚」です。(和尚の中にも段階があります。)つまり、活禅寺の「和尚」は、職業ではなく、タイトルということになります。


「和尚」の位を得るためには、たとえば特別の修行を毎年繰り返して10年間やり通し、そのあとさらに修行を積んで・・・という具合に、時間も努力も必要なのです。


私ですか?私は昨日今日入門した人とまったくおんなじ下っ端で、ノンタイトルです。(^^;;
入門後30年たってもこれです。いかに怠け者か、よくおわかりでしょう。


もちろんこんな私が仏教を説くなんて、さらさら出来ません。
だから私は無理せず私の出来ることだけをしようと思っています。

こんな怠け者でも、坐禅(座禅)をするだけで幸せになったよ・・・というお話です。


本当は和尚さんがするような、それこそ心頭を滅却して、坐禅(座禅)そのものになりきるような厳しい修行を続けることが出来れば、自分を変えることも、その結果として他人を変えることも出来たかもしれません。

そういうことが出来る人は、きっと何をやっても成功する人です。
体力もあり、気力も充実していて、精神力も強い人!
そういう人がのめり込むように坐禅(座禅)をすれば、こういう凄い坐禅(座禅)が出来る!
「和尚」になれるのです。


でもこの際、そういう人のことは忘れましょう。(^^;;


問題は、怠け者の、集中力のない、エネルギーのない私に何が出来たのか?ということです。

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気持ちが流れていくことが一番大事! [どうしても知って欲しい大切なこと]


失敗した時、だれでも全員「しまった!」と思いますよね?
問題はその後です。


「やってしまった失敗を思い悩んでも仕方がない。これから先どうするかを考えよう!」と気持ちを切り替えられる人が「出来る人」です。


ところが私のような「出来ない人」は、なかなか失敗の打撃から抜け出せない。
そもそも、その失敗のことをリピート再生してるみたいに考え続けている。

何時間たっても、そればっかり考える。ほかの事をやっても気もそぞろ。


昔の人は「気が詰まる」と言いました。
「気詰まり」とは、気がその部分に集中してしまって流れていかないということだと思います。


「失敗」という事態が起こったとき、本来ならしばらくすればその「失敗」から気持ちが切り替わって別のことに流れていくはずなのに、それが出来ない。


「失敗した自分」や、「失敗した相手」が、心のほとんどを占領してしまって、特に失敗した相手が自分をどう思うだろうかとか、どうやって謝ればいいかとか、相手に対する恐怖心などでほかの事が考えられなくなる。

それが「気が詰まる」ということなのだと思います。言い得て妙という感じですね!


こういうことは、言ってみれば性格と密接に結びついていますから、なかなか直すのは難しいと思っていました。
だって、昔からそうだもの。なかなか切り替えられない性格だったから。


でも、坐禅(座禅)をすると変わるのです!

失敗した時、もともと気持ちが流れて行き難い自分なのに、そこそこ流れるようになるのです。
かなり気がまぎれて、別の事をいろいろ考えられるようになるのです。


自分の今までと照らし合わせると一目瞭然だろうと思います。

たぶんしっかりと坐禅(座禅)の修行をすれば、もっとしっかりと変わるのだと思います。


禅の和尚さんたちはいつでも「淡々として」いらっしゃいますから。

その時その時に打ち込む。過ぎたことには頓着しない。


さあ、あなたも「気が詰まる」たちの人でしたら、是非坐禅(座禅)を試してみてください!(^-^)

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「寝る暇なんかないよねえ。」 [どうしても知って欲しい大切なこと]

タイトルの言葉は、兄妹の多い家の長男に嫁ぎ、苦労しながら一人息子を京都大学の医学部に入れて人望のある医者に育てたスーパー義姉の言葉です。

もう80歳になるのに、日本画を描き、琴やサクソフォンを習い、器用な手で手芸も達者で、いろいろなものを手作りしては出品したりしています。


その義姉が「いろんなことやってると、寝る暇なんかないよ。」と言うのです。

もう、私とのあまりの違いに自分が一瞬情けなくなりました。


さてこの私はどうでしょう?

「このブログは3日ごとに更新するぞ!」と勇んでいたのに、やれ、長女の結婚式で忙しいの、お腹が痛くて調子が悪いの、風邪気味で熱っぽいの(実際の体温は36.5分(^^;;)いろいろ口実をつけては、今回1週間近くも更新できませんでした。その間、寝ている時間がチョー長かったです。(^^;;


しみじみ感じました。「世の中には2種類の人間がいる。どんな時でも例外を作らずに毎日努力し続けて、突き進める人と、それが出来ない人だ!」ということです。

前者の代表が義姉であり、片岡鶴太郎だろうと思うのです。


片岡鶴太郎は、ヨガにのめり込むあまり、長年連れ添った奥様と離婚されたそうです。
そればかりでなく、ボクシングや、絵の世界でも超越した才能を示しています。

「猪突猛進」という言葉を思い出します。いったんこうと決めたら、その目標に向かってわき目をふらずにのめりこめる人。


結果を出すのは、世の中を変えるのは、絶対にこういうタイプの人です。
仕事量がハンパじゃないですもん!
人の何倍も練習して、人の何倍も考えて、自分なりのものを作り上げる。
その結果、誰に見せても評価の高い一級品が出来上がる。


後者の人、つまり、私ですね。(^^;;
後者の人が前者の人に勝てないのはもう一目瞭然です。
だって私が寝てばっかりいる間に、彼らは努力して練習し、作品を作っているのですから。


そういう時ね、坐禅(座禅)を知る前の私なら、自分が何もしていないのをさしおいて、なんだか苦々しいような、悔しいような、うらやましいような、そんな気持ちでそういう人々を見ていたような気がします。そう。嫉妬心だったのかな?


坐禅(座禅)を知ってから、そういう苦々しい思いに煩わされることがなくなりました。

ああやって努力して、大きな仕事をして、世の中に貢献できる人はスゴイ! 本当に凄い!

だけど私にはそんな生き方は出来っこないんだから仕方がない。無い物ねだりはやめにしよう。

眠ると身体も心も楽になる!エネルギーの足りない身体を眠りで支えているんだから、眠る時間は私にとってとても重要な時間なんだ!

そういう風に生まれついたんだから、仕方ないじゃない!


私には絶対に、出来る彼らにない良さがある。

怠け者でも、頑張れなくても、少なくとも私と同じような気弱で意志の弱い人々を思いやれる、寄り添える、そんな力がきっとある!


何十分かの坐禅(座禅)が終わった瞬間、そういう気持ちに自然になれるのが、坐禅(座禅)の醍醐味なのです!



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