仏好きの仏嫌い [どうしても知って欲しい大切なこと]
祖父16代笠原十兵衛は「仏の十兵衛」と呼ばれたそうです。いつもにこにこ笑っていて、決して怒ることをしない。「まあまあ」が口癖で、優柔不断と思われることもあったようです。
実は昭和30年代?くらいに祖父がラジオ番組に出演した時の古いレコードが残っていて、そのレコードにはあつらえたように傷が付いていて、放っておくと針が飛んで祖父が「まあまあ、まあまあ、まあまあ、まあまあ・・・・」と永遠に言い続けていました。
そんな仏の十兵衛さんも、家に帰ってくると奥さんのすゑさんに頭が上がらず、機関銃のように発射されるお小言に耳をふさいでじっと耐えていたそうな。(^^;;
仏になるのも大変なようです。(^-^)
仏になるのも大変なようです。(^-^)
「まあまあ」というのは、そんなことで怒らないで穏やかにやりましょうという意味ですよね?
そういう祖父は「仏」つまり「いい人」と呼ばれて人気も信用もありました。
そういう祖父は「仏」つまり「いい人」と呼ばれて人気も信用もありました。
私たちはつくづく仏が好きみたいです。だってみなさん、「いい人」が大好きでしょう?
「いい人」だったら、信用しちゃうでしょ?
選挙の時だって「人柄がよさそうだから」投票するでしょ?
「いい人」だったら、信用しちゃうでしょ?
選挙の時だって「人柄がよさそうだから」投票するでしょ?
考えてみたら私たちがされた教育だって日本という国の中で「いい人」になって、人に好かれて楽に生きていくための教育だったと思いません?
日本の中だけに通ずる価値観で育つわけですから、外国へ行ったら精神的にタフな人しか生き残れないんじゃないでしょうか?
もちろん「いい人」になっちゃいけない訳ではなくて、「いい人」イコール「みんな」の意見におもねる人って場合が多いから、自分の意見をちゃんと持てば「いい人」でもいいと思うんです。
そろそろ話を「仏嫌い」のほうに移しましょうか。
何度も書きましたが宗教としての仏教はとても不人気なようです。
菩提寺があっても、葬式には必ずお寺さんに来てもらって戒名をつけてもらっても、自分が仏教徒という自覚が少ない人が多い。
何度も書きましたが宗教としての仏教はとても不人気なようです。
菩提寺があっても、葬式には必ずお寺さんに来てもらって戒名をつけてもらっても、自分が仏教徒という自覚が少ない人が多い。
毎日の生活に「祈り」が無いからかもしれません。
大本山活禅寺一番の怠け者の私も、皆さん同様、毎日の生活に「祈り」などありません。(^^;;
本当は食事の前後のお祈りなど、お唱えしなければいけないのですが、家族の中ではなかなか難しいものです。
本当は食事の前後のお祈りなど、お唱えしなければいけないのですが、家族の中ではなかなか難しいものです。
そんな有様でも敢えて私が仏教徒を自覚する理由はなぜか?
単純明快です。困った時にすがるもの。護って欲しい時に願うもの、それが仏様だからです。
お願いする対象がキリストでも、アラーでも、八百万の神さまでもなく、仏様だからです。
お願いする対象がキリストでも、アラーでも、八百万の神さまでもなく、仏様だからです。
お寺にお墓はあるけれど、自分が仏教徒だなんて思ったことないよという皆さん。
もしもあなたに命の危険が迫った時、あなたは一体誰に向かって祈りますか?
もしもあなたに命の危険が迫った時、あなたは一体誰に向かって祈りますか?
宗教なんて抹香くさくて大嫌いと思っていられるかもしれませんが、宗教を持っているか持っていないかの違いなんて、結局、自分を護ってくれるのが誰なのかをはっきり認識しているかどうかの、そんな些細な違いだけのような気がします。
はっきり言えるのは、願う対象が確かな方が祈りやすいということです。
「神様、仏様、キリスト様!誰でもいいから助けてください!」と言うよりも、しっかりと指名されたほうが助けてくれる方だって「よっしゃ!」って気になりませんか?(^^;;
「神様、仏様、キリスト様!誰でもいいから助けてください!」と言うよりも、しっかりと指名されたほうが助けてくれる方だって「よっしゃ!」って気になりませんか?(^^;;
たぶん禅寺に入門したとしても、年会費みたいなのは高くないはずです。
ある程度のお金はそりゃあかかりますが、護って頂く分と思えば、つまり保険料と思えば(^^;;、凄く安いと思います。
ある程度のお金はそりゃあかかりますが、護って頂く分と思えば、つまり保険料と思えば(^^;;、凄く安いと思います。
仏好きのはずの日本人なのですから、仏アレルギーにならずにもう少し仏をわかろうとしてみて頂きたいと思います。(^-^)
「アーメン」は言い難い? [気楽に読んでね(^-^)]
長女の結婚式が6年間通った大学のあるおしゃれな港町の格式あるホテルで行われました。
店を継いでくれると思っていた娘を嫁に出すのは寂しいものですが、まあ多くの親が通ってきた道と思えばあきらめもつきます。
ましてや現代社会は、電話もメールもLINEもあります。
声が聞こえて、意志が通じれば、どんなに離れていようとも一瞬のうちに時間、空間の壁を越えられます。いい世の中になったものです。
声が聞こえて、意志が通じれば、どんなに離れていようとも一瞬のうちに時間、空間の壁を越えられます。いい世の中になったものです。
彼女の結婚式はキリスト教式でした。
申し訳ないけれど、カトリックの神父さまなのかプロテスタントの牧師さんなのか、それすらわからない親でしたが、港町にふさわしく、外国人の、とりあえず神父さまとしておきましょう、流暢な日本語を話す50代くらいの神父様でした。
申し訳ないけれど、カトリックの神父さまなのかプロテスタントの牧師さんなのか、それすらわからない親でしたが、港町にふさわしく、外国人の、とりあえず神父さまとしておきましょう、流暢な日本語を話す50代くらいの神父様でした。
不思議なものですね、たどたどしい日本語の聖書を読まれる時はそうでもないのに、早口の英語で誓いの言葉なんかを話されると、俄然おごそかな空気が漂います。
賛美歌312番、例の「いつくしみ深きわが主イエスは~~」という定番のやつが流れると、「ああ、この歌か、知ってる!」と言うんで、みんな声を張り上げます。
これは賛美歌なので、最後に必ず「アーメン」を二度言わなければなりません。
これは賛美歌なので、最後に必ず「アーメン」を二度言わなければなりません。
ところが!ここまで大きな声で歌っていた人々の声が、ぴたっと止みます。「アーメン」を唱えているのは、合唱団の人ばかり。
「アーメン」を唱える機会は2度、3度会ったのですがどこでも「アーメン」が唱えられることはありませんでした。
「アーメン」の意味は、「その通り」ということで、その教えをその通り守りますという誓いの言葉だそうです。つまり、お経の最後に「アーメン」と言おうが、そんなに違和感のない言葉のようなのですが、私たち日本人の心の中では、「南無阿弥陀仏」と同じく、一番のキリスト教を代表する言葉と受け止められます。
だから、なんとなく言えない。いいづらい。
日々の生活の中で仏教徒を認識していない私たちが最後の最後、仏教徒であることの証なのでしょうか?
それならまだしも、周りと同じことをしていれば安心な私たち。もしも誰かが一人大きな声で「アーメン」を言い出したならば、みんな一緒に唱えていたのでしょうか?
つまり「アーメン」が言えなかったのは、積極的回避ではなく、消極的回避という訳です。
誰も言わなかったから私も・・程度のささやかな抵抗だったのかもしれません。
誰も言わなかったから私も・・程度のささやかな抵抗だったのかもしれません。
日本人は、とうの昔はさることながら、クリスマスも、誕生日も、バレンタインも、ハロウィーンも
本当にすんなりと受け入れて来ました。それが碧眼紅毛の西洋人の文化だったからでしょうか。
本当にすんなりと受け入れて来ました。それが碧眼紅毛の西洋人の文化だったからでしょうか。
異国の文化はいともたやすく受け入れて、その上日本的にアレンジするのが大変上手な日本人。
ところが自国の文化を認めることは、なぜかうまくない。
外国から「スゴイ!」と認められてやっと気がつく。
外国から「スゴイ!」と認められてやっと気がつく。
坐禅(座禅)もそうかもしれません。
今、外国、特に西欧諸国ではブームといわれるくらい坐禅(座禅)が盛んだそうです。
このあいだ聞いてびっくりしたのは、日本の教会で坐禅(座禅)を取り入れているところもあるそうです。
今、外国、特に西欧諸国ではブームといわれるくらい坐禅(座禅)が盛んだそうです。
このあいだ聞いてびっくりしたのは、日本の教会で坐禅(座禅)を取り入れているところもあるそうです。
この際、それでもいいと思います。もっともっと、日本人が坐禅(座禅)の良さに気づいてくれるなら。
何度でも申し上げましょう。仏教と結びつく坐禅(座禅)が嫌なら、形だけ、方法だけ真似て下さい。
要するに幸せになりたかったら坐禅(座禅)をするのが一番簡単!というこのことだけを忘れないで覚えていて欲しいのです!
要するに幸せになりたかったら坐禅(座禅)をするのが一番簡単!というこのことだけを忘れないで覚えていて欲しいのです!
「明るくなったね!」 [気楽に読んでね(^-^)]
私が坐禅(座禅)に出会ったのは29歳の時。今から30年以上も前の話です。
それ以前の私は、嘘の人生を生きていたと思っています。
なぜなら、暗い自分を隠そうとして、誰の前でもへらへら笑っていたからです。
友人たちはそれを信じて、「九子ちゃんはいつもにこにこ楽しそうだね。」と言ってくれました。
そう言いながら彼らはきっと言いたい一言を心の中に閉じ込めていたのでしょう。
「にこにこしているけれど、何考えてるのかとらえどころのない子だね。」
大好きだった先輩の言葉はちょっとショックでした。
「九子ちゃんは他の子と違って、いつまでたっても友達や僕らの中に入って来ない。どうしてなんだろう?」
どうしてか?そんなこと私の方が聞きたかった。
一人っ子で友達いなかった私が、やっと高校で少しだけ友達が出来、大学のクラブ活動で気楽におしゃべりする友達が出来たと自分では思っていたのです。
私はいつでも普通に友達と接していたつもりでした。それなのに、「入って来ない。」と言われてしまったら、私は一体全体どうしたらいいのでしょう?
大学4年間は、自分のダメさ加減を痛感させられた4年間でした。
それと同時に、人より劣っている自分を今から人並みに変えて行く絶望的な大変さにも気がついて、眩暈がしそうでした。
一年強の就職、結婚、一年半の上京を経て長野に戻ってきた時も、私は基本的に昔となんら変わっていませんでした。
優しいM氏に自分の心の中の暗がりを見透かされないために、誰の前でもにこにこしていたのです。
嬉しくもないのににこにこしていることは辛いことでした。
それから数年たってから、隣の八百屋のおじさんに「九子ちゃん、この頃変わったなあ。明るくなったよ。」と言われました。おじさんは、優しいM氏と結婚したから私が変わったと信じているようでした。
確かにそれもかなりあります。(^^;;
でも、一番の原因は、もちろん大事な大事な坐禅(座禅)に出会ったからでした。
今までは、自分の心の暗さを隠すために、仕方なく、意味もなく笑っていました。
でも、坐禅(座禅)を知ってからは、楽しくて、幸せで、嬉しいから笑っています。
ふたつの笑いの間には、天と地ほどの隔たりがあるのです。
★"「九子のダメ母の証(あかし)日記」が更新されています。
とんでも薬剤師 ! [とんでも人間、とんでも薬剤師]
確かに私は薬局で家伝薬を売っておりますが、普通の意味での薬剤師・・とは別物と思って下さい。
私のようなおっちょこちょいの、調剤間違えてばかりの薬剤師と十羽一絡げにされることを、誇り高き他の薬剤師さん方はきっと苦々しく思っていらっしゃるでしょう。
本日もこんなことがございました。
夏休みで小学生くらいのかわいらしい僕とお嬢ちゃんを連れた若いパパが来店されました。
とてもイケメンさんだったように思い出すのは、その後の彼の振る舞いのせいでしょうか。
いつも申し上げるように、私は二つのことを一度に出来ない人間です。
薬の説明しながらおつりを数えるのは、普段はまあ惰性でなんとかやっておりますが、本日のように頭の中にいろいろ抱えている時はそれがうまく機能しないことがあります。
最初若いパパさんは雲切目薬に興味が無くて、そのまま帰ろうとされていたので資料だけお渡ししました。
そしたら急に「目のかゆいのにもいいですか?」とおっしゃるので、「はい。花粉症の時に一番よく売れます。」という話をしましたら、ひとつ欲しいということになりました。
ふだんでしたら「正しい目薬の点し方」のチラシをよく読んでくださいという話をしながら、頂いたお金を眺めておつりの準備をするのですが、今日はなぜか変だったのです。
変なのはレジの目に付くところに一枚の一万円札があったことでした。(私が片付け忘れただけの話だったのですが)
さらに変なのは私の頭の構造です。その万札を見ているうちに、お客様がその一万円で支払って下さったとどんどん信じ込んでいくのです。
結局私は、その若いパパさんに9000円のおつりを渡しました。まったく違和感など覚えませんでした。
お客様はいったん薬局を出られ、駐車場へ向かわれました。
そして数分後、また三人で戻ってこられたのです。
「考えてみたのですが、僕さっき、やっぱり1200円出したんですよね。そうでしょう?どうでしたか?」
そんなことを言われても、私にはその時の記憶はとっくに欠落しています。(^^;;
しどろもどろにお答えしているうちに、彼は9000円をケースの上に載せ、子供たちを連れて戻って行かれるところです。
みなさま、ボーっとしている私のような人間が店番をしていると、たまたまこういう光景に出会います。
そのたびごとに、私はなんと素晴らしい国に生まれたものだろうと感激し、私が生まれたのが騙そうとする人たちがたくさんいるどこかの国じゃなくて日本だったという幸運を心の底から感謝します。
今日の私の失敗はそれだけではありませんでした。
坐禅(座禅)をするのも忘れていたのです。
もしも坐禅(座禅)をしていたら、なにかもっと気の効いたことを言えたような気がします。
お子さんたちに、「パパ、素敵だね。君たちも損をしても正しいことの出来るパパみたいな人になってね。」とかなんとか・・・。
坐禅(座禅)を忘れるとこんな風に後悔するばかりです。それなのになぜか、坐禅(座禅)が出来ない日がこの頃多いのです。
いけないなあ、やらなくちゃなあ、といつも思いながら、大昔のようにびくびくおどおどして辛い気持ちが無くなってきたので、怠け放題の毎日を送っている。それが私です。(^^;;
宗教に染められたくない人々 [どうしても知って欲しい大切なこと]
坐禅(座禅)と聞いただけで、「ほら、宗教の話!」と身構える人々がたくさんいらっしゃるようです。
私たち日本人は「まっさら」が好きなんだなあとしみじみ思います。
お仏壇があって、お墓があって、お参りに行くでしょう? もうそれだけで充分あなたは仏教徒です。あなたが何を思おうと、自分は無宗教だと感じていようが、外国人の目から見れば立派な仏教徒のはずなのです。
でも、自分が仏教徒とは思われたくない。宗教なんて胡散臭いものとは無縁の存在でありたい。
日本人は昔から色をつけられるのを好みません。
当時の危険思想と思われていた共産思想のことを「赤」と呼び、あいつは「赤」だ!の一言で村八分にされ、のけ者にされる。
「赤」の人間をすべて排除することにより、残りの村はまっさらのままで居続ける事が出来る。
こういう成り行きのことを「レッドパージ」と呼ばれたそうです。(パージとは追放という意味です。)
つまり私たちの心には、まっさらが最上で、色が付いてるのは悪であるという意識がどこかに潜んでいるのではないでしょうか?
私は長野の善光寺の裏手にある「大本山活禅寺」で坐禅(座禅)を習いました。
禅僧が坐っている大きな看板が出ていて、禅寺とすぐにわかります。
禅宗というと大雑把ですが、特に曹洞宗の寺を菩提寺に持つ家が、私の周りには結構たくさんあります。
曹洞宗といえば、皆さんが厳しい修行の場として真っ先に思い浮かべる福井の永平寺が有名ですね。
残念ながら曹洞宗と名乗りながら、坐禅(座禅)の出来る道場を持っているお寺はもしかしたらそんなに多くはないのかもしれません。
それだけ坐禅(座禅)は私たちから遠い存在になってしまっているのでしょうか。
そういうまっとうな禅寺に対してさえも、嫌悪感を抱く人がいるのは本当に悲しいことです。
新興宗教と言われる宗教団体の名前を持ち出す時よりはあからさまな嫌悪感を顔に出す人は少ないけれど、それでも「宗教だから嫌」なのです。
「あの人は宗教をしている」と思われること自体が嫌なのです。
なぜなら宗教自体にも色が付いているから。具体的に何色かはよくわからないけれど、まっさらではなくなってしまうという事実がそう感じさせるのでしょうか?
嫌!は感情ですから、理論を尽くしても説得出来ません。「だめったら、だめ!」が一番やっかいなのです。
そういう人々のために、敢えて申し上げたいと思います。
不安や悩みを抱えて生きる人々には、是非是非禅寺へ行って坐禅(座禅)をしてみて欲しい。
でもそれは、限られた期間だけでいい。
あなたが正しい坐禅(座禅)の仕方を身につけるまで。つまり正しい姿勢と正しい呼吸を自分のものにしていつでもどこででもお寺で習ったやり方を再現できるという自信がついた時まで。
まあ、数ヶ月というところでしょうか。
そうしたらもうあなたはお寺に行く必要はありません。
それなら安心でしょう?(^-^)
たぶんその間、 円座と呼ばれる座布団代の数千円くらい 以外のお金を払う必要はないと思います。
私もそうして1年間、タダで活禅寺に通いました。
禅寺のモットーは「来るものは拒まず。去るものは追わず。」なので、去って行った人々に対してとてもあっさりしているはずです。
正しい坐禅(座禅)のやり方を身につけて、もうこれでこの寺から得ることは何もないと思ったら去ればいい。
何かまだ物足りないからもう少し知りたいと思えば、お寺にとどまる(入門)ことを考えたらいいと思います。
もちろん一度去ったからといって、あなたがお寺に帰ってくることを誰も拒みません。
坐り方がまたわからなくなったら、いつでもお寺に戻って来てください。(^-^)
坐禅(座禅)は辛くない!! [どうしても知って欲しい大切なこと]
この頃少しずつ呼吸法やらヨガやらマインドフルネスやら、人々が呼吸の大切さに気づき始めているようです。
呼吸といえば坐禅(座禅)!
そう。坐禅(座禅)の基本は呼吸なのです。だから、皆様が思うほど難行でも苦行でもないのです。
私が皆様に一番伝えたい事。それは、坐禅(座禅)は難行苦行でもないし、辛い修行でもないということ。
だってこの私が出来たんですから(^^;;、辛いはずはありません!
もしもあなたが、永平寺のお坊さんの修行や、警策(姿勢が悪い時叩かれる棒)をイメージして坐禅(座禅)を辛い苦しいものと考えていらっしゃるなら、それは大きな間違いです。
こんなにも素晴らしい坐禅(坐禅)という宝物を「なんとなく大変そうだから。」なんていう理由で、知らないまま一生を過ごしてしまうなんて、本当にもったいないと思います。
特にあなたが、30年前の私のように、不安と失意と劣等感に打ちひしがれて、人の目ばかり気にして生きていらっしゃるとしたら・・・・。 そしてどんな本を読んでも、「こんなこと、私なんかに真似出来るわけ無いじゃない!」とあきらめて、結局長い長い間、おんなじ気持ちのまま不幸?な一生を送っていらっしゃるのだとしたら・・・・・・。
そんなあなたには特に、坐禅(座禅)を試して欲しいのです!!
お寺に行く勇気を持って是非持って欲しい。
もうひとつ大事なこと。それは坐禅(座禅)は是非お寺で習って欲しいということ。
こういう世の中です。坐り方を書いた本もアプリもたくさんあると思います。
だけどそんなものを頼りにしてはいけません。
実際にあなたがあなたの近くにあるお寺に行って、お寺の和尚さんにきちんと坐り方を教えてもらって、納得できる坐り方が出来るまでは少なくても続けること。
それだけが秘訣です。
きっと坐禅(座禅)があなたを幸せにしてくれる!!
なかなか最初のうちはうまく坐れないので、自分には合わないのだとすぐにあきらめたくもなるでしょう。
そういう時に坐禅(座禅)の力を信じて、信じ続けられた人だけが坐禅(座禅)を、人生の宝物を手にすることが出来るのです。
ほら、やっぱり頑張る話じゃないかって?
そう。ここだけは、この関門だけはなんとしても乗り越えて欲しいのです。
正しい坐り方は、本で見る限りひとつかもしれません。でも、あなたにとって人生を変える坐り方は、一生懸命お寺に通って、ああでもない、こうでもないを繰り返して、「ああ、このことか!」とやっと納得する。ちょっとしたコツのようなものを掴むのが難しいのです。
それをつかむまでの日々がもしも長くなってしまったとしても、坐禅(座禅)の力を信じて是非続けて欲しいと思います。
坐禅(座禅)はうつ病には効かない! [どうしても知って欲しい大切なこと]
ネットに流れる情報では、「うつ病を薬無しに治す!」という無謀なことが書いてあって、一応薬剤師のはしくれ(^^;;、プラス現役うつ病患者である私は、困ったことだと思っています。
薬という現代社会の大恩恵が与えられている中で、薬に頼ることをよしとしない人々がいます。
副作用が怖いから?薬が無くても治ればそれに越したことは無いから?
うつ病という病気の一番の怖さは、自殺願望です。それを少しでもやわらげくれる力が証明されているものは、お医者さんが出してくれる薬だけです。
うつ病なのに副作用怖さに服薬しなかったら、あなたは最悪の道に向かって走っています。
そしてあとになって後悔しても、もう遅いのです。
多くの人々が薬の主作用よりも副作用のあるなしに注目されているのを知っています。
だから、副作用がないからという理由で、お医者様の薬よりも高くて効かないサプリメントを信じている人々を知っています。
彼らはサプリメントにとても寛大です。「だって副作用がないんだもの。効く効かないなんて二の次よ。効かなくたって半分気休めで飲んでるんだから別にいいのよ!」
そう言われてしまえば、もう返す言葉は見つかりません。
サプリメントの意味をご存知ですね?不足を補うもの、補充するものという意味であって、決して「治すもの」ではないのです。
うつ病という病気は、命にかかわる怖い病気です。お医者さまの薬でしか治すことの出来ない大変な病気なのです。
ここ10年ほどの間に、日本のうつ病治療薬は大変な進歩を遂げました。
薬の種類も増え、難治性と呼ばれる治りにくいうつ病もだんだん治るようになって来ました。
うつ病は命に関わる大変な病気です。サプリメントも呼吸法も坐禅(座禅)も効きません。
あなた一人ではうつ病に立ち向かうことは出来ません。
どうぞ一日も早くお医者様にかかってください。服薬を開始して下さい。
うつ病のときに坐禅(座禅)をしようなんて、愚の骨頂です。
それよりも休養!服薬!そして良いお医者さまに出会うことです!
サプリメントを否定するものではありませんが、あなたが本当に病気を治したいなら、真っ先に行くべき場所はお医者様であり、信じるべきものは処方箋という紙と交換して与えられる薬たちです。